オスカー・ワイルドの作品で*1「幸福な王子(訳によっては「幸福の王子」)」という作品があります。最後の方で、つばめが力尽き、王子に口づけをして息絶えます。王子の鉛で出来た心臓は真っ二つに割れて、王子もまた息絶えます(像ですが)。
国語の問題みたいでアレなのですが、どうして王子の心臓は真っ二つに割れてしまったのでしょうか。
子供の頃は、単純につばめが死んじゃってショックの余りに王子もまた死んでしまったのだと思っていたのですが、違う見方をすると、王子が自己犠牲で街の人々へ施しを与えていたつもりでいたけれども、実はつばめにも犠牲を強いた上での「王子の自己犠牲」であり、そしてそのつばめが今命尽きてしまった事への懺悔、後悔などなどで王子も死んでしまったのだろうと考える事も出来ると最近この話を思い出して気付きました。
本当はもっと別のところにワイルドの言いたい部分はあるのかもしれないけど、皆さんはどのように考えるでしょうか。
ザ・サンが記事にしたマイケル・ジャクソンぼろぼろだったんだぜ的記事をヤホーで目にして、つい思い出したのが「幸福な王子」でした。あとは、常々「シザーハンズ」を思い出させるなと感じていたら、マイケルはシザーハンズの両手をコレクションしてたんですね。自分とダブらせて見ていたのだろうか。
そんな訳で、ずっと私の中での晩年のマイケル評は「気の毒な人」だったんですが、さっきレミの息子こと和田唱のブログにあれほど愛され、リスペクトされていた人が現在いただろうかというような事が書かれていたのを見て、マスコミのゴシップ攻勢にばかり目がいっていたけど、幸せもまた掴んでいたのだなと感じました。
そして、どうでもいいけど「ナイチンゲールとバラ」もオスカー・ワイルドの話だったのね。
*1:という事を幼少時は知りませんでしたが